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小さな集落と大原神社の係わり
産屋の利用
産屋を利用して出産していたのは大正2年の頃までで、確かではありませんが明治初めの頃までは、お産のたびに産屋を建て替えていたようです。産屋で出産していた頃は、7日7晩こもり、その後自宅で出産しはじめた頃には産後3日3晩、戦前・戦中には2日1晩、それから産後数時間のみとなり次第にこの習慣はなくなりました。
産屋での出産は、陣痛がはじまると家の者が川に梯子をかけて上に戸板を渡し、必ず夫が先導をして産気づいた妻を産屋に連れて行きました。このとき普段使っている板橋は使わなかったようで、それは梯子の『コウ:格』にあやかり、子がたくさん産まれる様にと祈りをこめたからでした。出産は取り上げばあさん(産婆)が介助し、座産で天井からさがる力綱を利用しました。産後の後産(あとざん)は、産屋の隅に積んである小石の下に埋めました。それは次に産屋の利用者がある頃には綺麗に無くなっていたといい、大原神社の使いの狼※1が処理したと伝えられています。
食事は自宅で調理されたものを、夫や母親などの手によって運ばれたようで、ほとんどがお粥さんていどのものだったとのことです。冬の暖は、火鉢や湯たんぽでとったようで、灯りはランプを灯していたようです。
※1 使いの狼は大原神社のお守りや、交通安全祭でもらえるステッカーにも描かれています。この地域ではよくこのステッカーを付けている車を見かけます。
福知山地方での昔の出産
福知山地方の昔の出産について、当時(大正〜昭和初期)を思い出して書かれたものです。当時どのように出産が行われていたか伝わるものだと思います。
『お腹が痛くなった、さあお産だと言うことに成ると前以って頼んである取り上げ婆さんと言って少しはお産に詳しい女の人を頼みに走って貰う。そして大きな鍋に湯を沸かす。これは大てい主人の仕事、部屋のタタミ1枚を上げてそこに藁を敷き油紙かボロ布を敷く。その上でお産が始まる。無事出産が終わると取り上げ婆さんが臍の緒を切る、翌日から毎日取り上げ婆さんが湯浴びせに来る。母乳を飲ませる前に子供の体内の毒を出す為蕗(ふき)の根とカンゾ(かんぞう:甘草)を煎じたのを飲ませる。』(昭和初期の話)
『大正初期まで座産をしていた。いよいよ産まれる時は、立ひざをして腰を浮かせ、両手をついて後にのけぞるようにして自然に産んだ。その頃は”とりあげばあさん”という人がいて、半職業的にお産を取り扱っていた。大正の中期から産婆さんが衛生的に座産を改善し、寝てお産をするようになった。』
大原神社の本殿に、「産婆 三ッ井」と書かれた木の看板が残っています。これは現在の三和中学校の近く、派出所の辺りで開業されていた産婆さんの看板です。
産屋の役割
そもそもなぜ家ではなく、わざわざ産屋で出産するようになったのでしょうか。
まず一つの説として、日本で室町時代後期より民間に広まり、その後庶民の女性観、出産観に影響を与えた『血盆経(けつぼんきょう)』の影響があるといわれています。血盆経とは、出産で流れる大量の血が、地の神を汚し、また水も汚すので、女性はその罪によって死後『血の池地獄』に落ちると説かれた、いわゆるインドではなく中国でつくられた偽経です。残念なことに、特に江戸時代までにはずいぶんとこの偽経が各地に広まったようで、一般的にお産はケガレであり、ケガレのない日常からは隔離しなければならないとされたようです。今の考えからすればとんでもない教えですが、昔の人からの聞き取りの言葉からすると田舎ほど後々までこの考えが残っていたようです。これらの考えからすると産屋は大原神社の聖域を血で穢さないようにするため造られたようにありますが、そう決めつけられるものではないようです。
確かに姑や舅(しゅうと)に『出産でケガレたので産屋にいって休んでこい』『こもりに行かんなんでよ』と言われたと残るように、血盆経の影響はあるでしょうが、実際に産屋にいった人からの感覚からすれば、大原神社の加護のもと『泊まる』や『休みに行く』といった意識が強かったようです。
それに産屋のある場所からしても、入り口から大原神社が望め、大原神社からも産屋を見る事が出来ることから、とても聖域の外に産屋があるようには思えません。
都会から嫁いで来た若い人が、この産屋の話を聞いて、非生理的な、ばかげた習慣だと怖れていたが、やがて自分もそこへ行くと『こんないい所なら、わたしずっと居たいわ・・・』と誰しもが言った、とあります。
昔この地域一帯は養蚕が盛んでした。大原の地でもそれは変わりなく、忙しく人手が必要でした。
養蚕地帯の方の書き残された資料によると、ずいぶん無理をして早産をする人も有り、姑が一家の実権を握っていたので、産前産後の休養などと理解のある人は少なかった、とあります。出産を控えるからといって、生活にそれほど余裕のない田舎では、働かなければいけませんでした。
そういった中、産後の休息という意味では、当時の人にとってみれば産屋は大きな役割をもっていたようです。 他の地域では家で出産していたが、町垣内の人たちは大原さんに遠慮して産屋にいった、というのが昔の人からの聞き取りに残る様に、大原神社に遠慮する心と大原神社の加護の中にありたいと言う思いが、ない交ぜになったところに大原の産屋はあるのではないかと思われます。
昭和8年の郷土雑誌への投稿によると、
村の人々が朝起きて川向いの産屋から煙の立っているのを見て、『ははあ・・・ゆうべは何処そこの子供が出来たらしい』と思った。すると女子供が産屋へそれぞれ見舞いに行った。時によって二家が一ときになるようなことがあった。その時の村の賑わいと言ったらなかった、とあります。
これがすべてを語っているように思えます。